広島平和記念資料館で考えた~その2~オバマ大統領と禎子さんの折り鶴

こんにちはaiです。

前回に引き続き、平和についてのお話しです。
~その2~オバマ大統領と禎子さんの折り鶴についてお送りします。

前回ブログはこちら
『広島平和記念資料館で考えた~その1~8月6日を知る』

 

オバマ大統領の広島訪問

今年の5月27日アメリカの現職大統領として初めて、バラク・オバマ大統領は、核保有国の立場でありながら、核による最初の被爆地である広島を訪れました。第二次世界大戦で亡くなった全ての方を追悼するために広島を訪れたと語りました。戦後71年目にして初めて、アメリカの大統領が被爆者と会いました。謝罪はありませんでしたが、オバマ大統領と被爆者の方が抱き合う姿は印象的でした。

オバマ大統領は10分程平和資料館を視察し、佐々木禎子さんに強い関心を持ち、自ら折った折り鶴を小中学生に手渡しました。
その後広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花しました。
そして被爆者と短い言葉を交わし、長い握手をしました。

オバマ大統領の演説

その後の演説は17分間にも渡るものでした。
スピーチされた内容のリンクです(翻訳によって少し違うので2つ貼ります)

広島平和記念公園におけるバラク・オバマ大統領の演説翻訳和文(米国大使館)

8月6日の記憶 消えてはならない オバマ氏の演説全文和文(日本経済新聞)

YouTube動画(字幕和訳付き)

 

広島で平和教育を受けて育ったaiにとっては、今年一番の出来事でした。
オバマ大統領の演説を何度も聞き、心震えました。
71年前の8月6日の朝に焦点を当て、この惨劇を絶対に繰り返してはならない。世界中にある普通の幸せを守ろう。広島と長崎を今ある平和について考えるきっかけにしよう。と言ってくれた気がします。

最後の部分がとても良かったので抜粋します。

“The world was forever changed here, but today the children of this city will go through their day in peace.What a precious thing that is. It is worth protecting and then extending to every child.That is a future we can choose, a future in which Hiroshima and Nagasaki are known not as the dawn of atomic warfare, but as the start of our own moral awakening.”

この地で世界は永遠に変わりました。しかし、今日この町に住む子どもたちは平和な中で一日を過ごします。なんと素晴らしいことでしょう。これは守る価値があることであり、全ての子どもに与える価値があることです。こうした未来を私たちは選ぶことができます。
そしてその未来において、広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たち自身が倫理的に目覚めることの始まりとして知られるようになるでしょう。(米大使館翻訳より抜粋)

オバマ大統領の演説の素晴らしさ

少し話がそれてしまいますが、オバマ大統領はもともと演説の巧さで政治の世界へのし上ったとも言われています。美しい発音。空気感の作り方。目線。表情。どれをとっても一流ですよね。聞き惚れてしまいます。
今回の広島訪問を受け、草案を書いたとされるのは、側近である、ベン・ローズ(大統領副補佐官)氏。
今回の演説原稿の一部をブログにアップしています。オバマ大統領みずから何度も推敲を重ねて、細かい言い回しまで気を使っていた様子がわかります。
広島でのスピーチが絶賛された背景には影ながら支えた人や努力もあるのですね。

オバマ氏自ら修正 広島演説の原稿公開 (2016.6.2 日本経済新聞)

オバマ大統領からサプライズのプレゼント

オバマ大統領は資料館の見学中「実は折り鶴を持ってきました」「少し手伝ってもらったけれど、私が作りました」。と告げ、4羽あるうちの2羽を出迎えた小中学生に手渡しました。
その時に白血病で原爆から10年経って亡くなった佐々木禎子さんの話しに強い関心を示し、特別にアクリルケースを外してもらって顔を近づけて見入ったそうです。
芳名録に、メッセージを記すと、その上にも折り鶴2羽を置きました。
そのメッセージがこちら

私たちは戦争の苦しみを経験しました。
共に、平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう


オバマ大統領が小中学生に手渡した折り鶴

 


オバマ大統領が平和へのメッセージと共に置いた折り鶴

なんと粋なサプライズでしょうか!
言葉だけでは表現できない「想い」を折り鶴に込めたのです。

さて、ネット上では、「オバマ大統領が本当に折ったのか?」「ものすごく綺麗に折られている」「日本人の私より上手」とオバマ大統領の気遣いを喜ぶ声があがりました。aiも本当にあんなに綺麗に折れるものなのかちょっぴり半信半疑でした。

安芸ん堂も繊細でとても小さな折り鶴を商品にしています。
「おりづるいやりんぐ」「おりづるぴあす」です。

そこで3cm角の折り鶴を綺麗に折ることができる制作担当者にオバマ大統領の折り鶴は本当に自分で折ったと思うか?と聞いてみました。
「あの折り鶴は、カットされていない普通サイズの折り紙(15㎝角)だと思うので、小さなサイズの折り紙で折ることと比べたら比較的簡単だと思います。折り鶴は小さくなればなるほど難易度があがります。あの折り鶴はオバマ大統領が折ったのだと思います。きっと一生懸命練習されたんだと思いますよ。」
と返事が返ってきました。
  

オバマ大統領が資料館を見た10分

aiとひまごんが今回資料館を見学した時間は約2時間でした。岡本さんの丁寧な説明を受けながら、遺品が語るエピソードを教えていただきながらまわりました。
とても10分で見てまわれるものではないという意見が多いですしaiもそう感じました。

しかし、資料館見学は元々予定に無かったのだそうです。
それを本人の希望で無理やりねじ込んだと言われています。
それに応えるために資料館側は今回、数十点の資料を厳選し、1階ロビーに集めて「可能な限り原爆の悲惨さが伝わるよう工夫した特設会場を作った」のだそうです。

オバマ米大統領「禎子の折り鶴」に体かがめ 原爆資料館(2016.6.4 毎日新聞)

※オバマ大統領の折り鶴の展示は今年の8月31日までとなっています。

佐々木禎子さんを知っていますか?

オバマ大統領が感銘を受けたという、
佐々木禎子さんについて少しお話しします。

禎子さんは、2歳の時、爆心地から1.6kmにある自宅内で被爆しました。
木造2階建ての家は壁も柱も壊れて、爆風で吹き飛ばされたにも関わらず、禎子さん自身は無傷の状態だったといいます。その後元気に育ち、リレーの選手にも抜擢され、「サル」というニックネームをつけられるほど活発な子どもでした。
しかし、12歳の若さで急性白血病と診断されました。(白血病の中でも進行が急激で発病後1年ともたない人が多い)8ヵ月の闘病生活の後、亡くなりました。

家族は12歳の子どもに、白血病という病名を最後まで言うことができずにいましたが、彼女の死後、ベッドを片付けていたら、白血球の数値が書き込まれたメモが出てきたそうです。
禎子さんは自分のカルテをこっそり見てはメモを取って、病気の進行を気にしていたのでしょうか。
しかし、それを表に出さず明るく振舞っていたそうです。

禎子さんが折り鶴を折るようになったきっかけ

禎子さんは広島赤十字病院に入院していました。

名古屋の女子高生から、原爆症患者へ、お見舞いといっしょに、きれいなセロファンで折られた千羽鶴が送られてきました。
その中の1房を受け取った禎子さんはきれいな折り鶴に感激し、仲よしのルームメイトと千羽鶴を折ることにしたのです。

それから試行錯誤を重ね、5センチ四方の紙が一番折りやすく手が疲れにくいことがわかりました。そこで紙をつくるため、病室をまわっては、お菓子の包み紙(キャラメル、キャンディーなど)お見舞いの包装紙、薬の薬包紙を集めました。
仲良しのルームメイトと2人、千羽折ったら、病気が治ると信じで黙々と折りました。
自分の病状を知っていて折っていたのだとしたら…と思うととても切ないです。

現在平和記念資料館で展示されている折り鶴には、若干12歳の女の子が、「生きたい」と強く願った祈りが込められているのですね。

原爆の子の像建設は禎子さんの級友がきっかけだった

禎子さんは、クラスの人気者でした。まだ禎子さんの病状が重くなる前に、級友たちは入れ替わり立ち代わり禎子さんのお見舞いに行きました。病室は賑やかだったそうです。その時の仲間たちが禎子さんが他界した後、原爆の子の像建設のきっかけをつくりました。
全国の中学校の校長会議が広島で開催された時に、2千枚のビラ(級友たちが自分たちで文章を書き刷った)を集まった校長に自ら配り、呼びかけました。

「原爆の子の像を作りましょう」という題名で禎子さんが原子病で亡くなったこと、原爆のことを言って死んでいかれた心が悲しくてならない。なんの罪もなく原爆によりなくなったすべての子どもの霊をまつってあげたいのだという内容でした。まだ12歳の子どもらが書いた稚拙な文章でしたが、それゆえに人々の心を動かしたのかもしれません。
その後全国の学校から、寄付金が届くようになりました。やがて大きな運動になり、像建設へと発展しました。

この話が詳しく書かれた本があります。
(この本は、ピースボランティアの岡本さんが紹介してくださいました。)

「折り鶴の子どもたち」那須正幹

那須正幹さんは、あの有名な「ズッコケ3人組シリーズ」の作者なんです。
aiが小学生の頃、図書室にはこのシリーズがありましたが、殆ど貸し出し中になってしまう程人気の本でした。この「折り鶴の子どもたち」は、佐々木禎子さんに焦点を当て、物語が進んでいきます。登場人物の級友や、校長先生、平和活動に熱心な青年は実在の人物です。悲劇ではありますが、登場人物一人ひとりが生き生きと描かれ、当時の子どもたちが感じていた原爆や戦争に対する怒りや哀しみと共に、懸命に生きている様子が伝わってきます。

原爆の被害や、当時広島にあった、ABCCという原爆の後障害を調査する機関の話も出てきます。やさしく美しい文章で禎子さんのこと、当時の広島のこと、級友たちの気持ちの揺れ動きなど、かなり詳細に書かれています。相当な取材をされたのだということが分かります。

禎子さんだけにクローズアップしていますが、これまで元気だった人が急に原爆症になり死亡する例は他にもありました。戦後71年経った今でも、被爆者はその恐怖と闘いながら生きておられるということを、改めて思い至りました。

原爆の子の像に集まる千羽鶴のその後

現在この「原爆の子の像」には世界中から平和を願って折られた千羽鶴が毎日集まります。その数は年間約1千万羽、重さにして約10トンにものぼるそうです。

 
左:「原爆の子の像」全体 右:像の上部(禎子さんがモデルと言われている)

さてこの折り鶴、展示された後の処分をご存知ですか?
広島市では折り鶴の最終的な行き場が問題になっていました。

これをエコロジ―に解決する方法として、多くの団体が、この折り鶴を再生紙にする取組みを始めています。安芸ん堂も、NPOを通じこの千羽鶴再生紙を使い商品作りをしています。
現在販売している安芸ん堂の「おりづるアクセサリー」
商品パッケージ(アクセサリーの台)に使用しています。


おりがみの破片が混ざっているのが見えます

「かわいい」アクセサリを付けて楽しめる幸せ、今では当たり前となった小さな幸せですが、71年前の若い女の子たちは、それどころではなかったのです。

おしゃれを楽しみ平和を願うアイテムとして、このおりづるアクセサリーが、日本中、世界中に羽ばたいて行くといいなと思うaiです。

平和の祈りを込めて広島から折り鶴のかわいいアクセサリーをみなさまの元へ届けます。
安芸ん堂のおりづるアクセサリー

最後に、今回平和記念資料館を案内してくださった、ピースボランティアの岡本忠さん。このブログを書くにあたり、大変な協力をしてくださいました。本当にありがとうございました。感謝しております。

 

広島平和記念公園HP→こちら

広島市HP→折り鶴と「原爆の子の像」について