広島平和記念資料館で考えた~その1~8月6日を知る

こんにちはaiです。
梅雨明け7月下旬のこの季節、広島では、
「もうすぐ原爆の日じゃねぇ…今日も暑くなるけぇ気をつけんさいよ~」
などという挨拶を聞くことがあります。
わたしたち広島人にとっては、8月6日は特別な日で、年に1度の平和記念式典も生活の中で当たり前のものとなっています。

aiとひまごんは、そんな8月6日を迎えるにあたり、オバマ大統領の折り鶴もあることだし、安芸ん堂の商品作りの為、今一度平和資料館を見てみないか?ということで広島平和記念資料館へ出かけました。

aiは資料館へは小学生の時に何度か訪れ、成人してからは他県の友人を連れて1度だけしか行っていません。ひまごんも大人になってからなかなか行く機会がなかったと言っていました。

今回は、71年前の8月6日に広島で何が起こったのか、平和記念資料館を訪れ感じたことや教えていただいたことを中心に紹介していきます。

8月6日は登校日だった

aiが子どもの頃、広島の小中学校では、原爆が投下された8月6日は、夏休みの登校日に指定されていました。その日は早く登校して、原爆投下の時刻、8時15分に黙祷をします。その後、戦争に関する映画を観たりして平和学習の全校集会がありました。
これが全国的なものだと思い込んでいたai。
まさか8月6日の8時15分に黙祷をしていない人が日本に存在するとは思ってもみませんでした。
aiと同じようなカルチャーショックを受けた広島出身者は結構多いのではないでしょうか。

大人になって、平和学習という特別な集会が無くなっても、
やっぱりこの8月6日は特別な日です。
戦争を知らず、原爆に遭ったわけでもない私が言うのはおこがましいのかもしれません。でも、そんな平和しか知らない世代が、この日あったことについて考える日として大切にしていきたいと思います。

最近の小中学校では、私たちの時と違い、8月6日前後で登校日があり、平和学習をしているそうです。
今3歳のaiの子どもも小学生になると平和学習が始まります。aiからも自分の言葉で「平和」を伝えたいと思っています。

 

平和公園のスペシャリスト「ピースボランティア」

今回ピースボランティアの岡本忠さんが(平和資料館のガイドをしながら一緒に回ってくれる人)プライベートでわたしたちのガイドをしてくださいました。

なぜわたしたちにプライベートで付き合ってくださるかと言うと、今年のフラワーフェスティバルの時に、中国新聞に掲載された安芸ん堂の記事を見てブースに来場してくださったという、運命的な出会いがあり、安芸ん堂が千羽鶴再生紙を使用していることに興味を持ってくださっていたから。それと、aiが個人的に原爆のことを自分の子どもに伝えるための勉強をしたいと訴えたからなんです。

岡本忠さん(ピースボランティア代表幹事)
ピースボランティアの火曜日グループに所属されています。
岡本さん自身1歳の時に被爆されて奇跡的に助かった一人です。
前職を退職後、2008年からピースボランティアをされています。
「ここに来て人生が変わった。人に恵まれた」とおっしゃったのが印象的です。

岡本忠さんの新聞記事※→こちら
※ヒロシマ平和メディアセンターは原爆や平和に関する情報を発信する中国新聞のサイトです。

ピースボランティアとは?
現在約200人の登録があります。資料館内ガイドか、平和公園のガイドかを選ぶことができ(両方も可)、希望の曜日に予約できます。案内は無料です。
ピースボランティアとは?詳しくは→こちら
 

広島平和記念資料館について

博物館や美術館は写真撮影禁止で、メモも禁止の所もあります。でも平和記念資料館はメモを取っても写真をフラッシュなしで撮ってもいいんです。子どもに学びに来てもらいたい為だそうです。
入場料は長い間大人50円でしたが、現在ではこのようになっています。

<資料館の観覧料>

区分 個人 団体
大人 200円 160円(30人以上)
高校生 100円 無料(20人以上)
中学生以下 無料

○土曜日は高校生無料(ただし、祝日、春、夏、冬休み期間を除く)
○学校教育活動で見学する高校生は20人未満でも無料
○原爆障害者章、身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳、戦傷病者手帳の提示で無料
○65歳以上の者であることを確認できる公的証明書を提示した場合は、100円で入館

<開館時間>入館は閉館時刻の30分前まで

3月~7月 8:30~18:00
8月 (8月5日、6日は20:00閉館) 8:30~19:00
9月~11月 8:30~18:00
12月~2月 8:30~17:00

<休館日>
12月30日及び31日

 

資料館の展示

さっそく資料館に入ります。現在は東館のリニューアル工事の為、本館しか見ることができませんが、すごい人出です。特に外国人の団体の方が多いです。オバマ大統領効果はすごいな~と思いつつ、(自分もその一人なんですが)来館者が増えたのは大変喜ばしいことです。

入口でチケットを購入したら、観覧券と、千羽鶴再生紙で作られたポストカードを受け取ります。
このポストカードは私たち安芸ん堂も参加しているNPOの千羽鶴再生紙です。おりづるイヤリングの台紙にも使用している紙です。資料館のリーフレットはPDFでもダウンロード可能です。
全部で9言語→ダウンロードページ
(日本語、中国語、英語、フランス語、ドイツ語、ハングル、イタリア語、ポルトガル語、ロシア語、スペイン語)

1945(昭和20)年8月6日午前8時15分

人類史上はじめての原子爆弾が広島市に投下されました。地上600mの地点で爆発しました。ものすごい光と温度でした。半径2㎞の建物(ほぼ木造)は爆風や熱線で焼き尽くされました。
赤い球は、爆発した高さ、爆発した時にできた火の玉の大きさ(直径280m)を再現したものです。
※爆心地は赤い球の下の地上に立つ細い棒の場所です。

爆発の2~3分後には大きなきのこ雲が発生し、遠く離れた場所からも見えたそうです。きのこ雲は上空1.6㎞までのぼる巨大なものでした。


爆心地から半径2km

建物疎開作業の当番になった人(主に中学生、女学生、婦人など)が多く外に出ていました。多くの若い命が一瞬にして無くなってしまいました。さらにこの時刻は、食事のために火を起こしている家庭が多かったため、爆発後に出火が相次ぎました。火が完全に消えるまでに3日かかったそうです。

8月6日の朝8時15分ごろは満潮でした。原爆投下で火傷を負った多くの人が水を求めて川に集まりました。迫り来る火災から逃れるために川へ飛び込む人もたくさんいました。衰えない火の勢いに、川から上がることもできず力尽き、そのまま流されてしまう人も多かったそうです。川から海へ流された遺体は、翌日、次の満潮とともに川へ戻って来たそうです。その光景は地獄のようだったに違いありません。


模型皮膚が焼け逃げ惑う人々

実際のサイズの模型も展示されています。原子爆弾は、ウラン原子が核分裂するときに発生するエネルギーを兵器として利用したものです。たった3mほどの爆弾1つだけで広島の街を壊滅させました。
上空で爆発させた理由は、その爆発による効果をより広げるためだったそうです。

これまで大きな空襲もなかった広島に原爆が落とされたのはなぜでしょうか?
アメリカ軍は原爆の効果を測定できる市街地を探し17の候補地を挙げ、最終候補地を(広島、小倉、新潟、長崎)としました。その地域には後に原爆を落とすために、あえて空襲を禁止していたのです。


実際のサイズの原子爆弾(レプリカ)

原爆当日の写真

原爆当日の広島市内の様子を写した写真は、なんとこの世に5枚しかないのだそうです。この5枚の写真は全て1人の人によって撮影されました。

その中の貴重な1枚の写真について・・・
爆心地から約2㎞の地点にある御幸橋へ避難してきた人たちを、中国新聞の記者が撮影しました。自らも被爆しながら、この光景を茫然と見たそうです。あまりの出来事にシャッターをなかなかきることができませんでした。

プロの記者がなぜ人びとの後ろ姿しか撮れなかったのでしょうか?皆顔にひどい火傷を負っていて、とても写せる状況ではなかったからなんです。その1枚の写真からは撮影者の絶望を感じます。

 

被害の大きさ

当時広島市内には約35万人いました。原爆によって14万人(±1万人)亡くなりました。(8月6日~その年の12月31日まで)爆発当日に火傷などで亡くなった方以外にも、放射線を大量に浴びたことでその後原爆症になる人も後をたちませんでした。


三輪車と鉄かぶと(鉄谷信男氏寄贈)

当時3歳の男の子が庭で三輪車に乗って遊んでいる時に被爆しました。火傷が酷く、その日のうちに亡くなりました。一緒に遊んでいた女の子も亡くなり、父親は一人でお墓に埋めるのをかわいそうに思い、2人の手を繋いだ状態で自宅の裏庭に埋めました。その時後でお墓に移す時の目安になればと、男の子に鉄かぶとをかぶせ、大好きだった三輪車も一緒に自宅の裏庭に埋めました。それから40年経ち、遺骨をお墓に移そうと掘り起こした時、鉄かぶとのおかげで男の子の遺骨が判別でき、手も繫がっていたことがわかったそうです。

aiには3歳の子どもがいます。この話を聞いて、もしこれが自分の子どもだったらと想像して、辛くてたまりませんでした。


中学生の同級生の学生服
(左側は谷口順之助氏寄贈、右側は西本まさえ氏寄贈)

やっとのことで2人で川へ逃げて、防空壕にたどり着きましたが、顔の見分けがつかない程の大やけどを負ったため、探しにきた父親と兄は声と服とベルトで判断したそうです。一人は東京の子どもで、広島が安全と思って転校してきた矢先の出来事だったそうです。


変形した鉄骨

最上階の天井の鉄骨は、強烈な爆風の垂直圧を受けて切断され、大きく曲がってしまいました。

 

 

 

 

溶けて固まった瓦
ぶつぶつの泡状になったところが溶けて固まった所で、それ以外は重なっていたところです。

 

 

 

 

ガラスが刺さった壁 
強烈な爆風により飛んできたガラス。固い建物の壁に突き刺さるということは、外にいた人は想像を絶する被害を受けた証拠。

 

 

黒い雨
爆発の後、2~30分後、ススや放射能を含む黒い雨が降りました。
大やけどを負い水を求めていた人々の中には、そのとても危険な雨を飲んでしまった人もいます。

 

 

 

 

 

 

 

放射線の影響

放射線を浴びると、細胞の中にある染色体が切断されます。染色体は切断されても再びくっつく働きがありますが、放射線を大量に浴びると一度にたくさんの染色体が切断されて、違う染色体同士がくっつき、異常な細胞ができ、原爆症の原因となります。

<放射線の影響で出る症状>
・腸の粘膜からの出血(下血)
・髪の毛が抜け落ちる
・癌が一度に違う場所に2つできる
・白血病(血液の癌)になる

同じ場所で被爆した兄弟でも、その後生き残った者と死亡した例もあるそうです。
さらに戦後71年たった今でも、放射線の影響はわかっていないことが多いそうです。
被爆者の方たちは今もまだ不安を抱えたまま生きておられるのです。

サダコさんの折り鶴
(佐々木繁夫氏、雅弘氏寄贈)

2歳で被爆し、その後白血病によって12歳で死亡した佐々木禎子さんのエピソードは、日本だけでなく、海外でも語り継がれています。今回オバマ大統領が来館した際も、この禎子さんに感銘を受けて折り鶴を折ったという報道があります。禎子さんについては、その2で詳しく掘り下げようと思います。

禎子さんの著書は海外でも人気だそうです。
海外向けに翻訳されたものも数多くあります。

当時折り紙は高価だったため、折り鶴は薬の包み紙で折られました。かなり小さいものです。

 

「廃墟の光」――ロベルト・ユンク(オーストラリア)作
「サダコは生きる」――カール・ブルックナー(オーストリア)作
「サダコ」――エレノア・コア(アメリカ)作

 

 

復興のシンボル

 
人々を勇気づけたカンナの花
広島は75年間は草木も生えないといわれていました。その年の秋、未だ復興できない街の中で、カンナが咲きました。この花は人々に勇気と希望を与えました。

その後広島は、平和都市として復興し、現在の美しい街に戻りました。

 

原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)

展示が終わり展示室から出ると、原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)が見えます。
その碑に書いてある言葉はその場所から肉眼で見ることはできませんが
小学校の頃から幾度となく言ってきたフレーズなので知っています。

“安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから”

この言葉を思いだし、やっと現実に戻ることができたaiでした。

原爆死没者慰霊碑の設計は、丹下健三氏(当時東京大学助教授)のグループが担当しました。
原爆で犠牲になった人たちの霊を雨露から守るために屋根の部分ははにわの家形になっています。(最初のデザイン案はアーチがもっと大きかったそうです)。
中央の石室(石棺)には、原爆によって亡くなったすべての犠牲者(国内外を問わず)氏名を記帳した名簿が納められています。

展示室から出た2階の窓から見るとよくわかるのですが、
平和公園は、この原爆死没者慰霊碑を中心に、左右対称に設計されています。

慰霊碑につながる1本の通路には、ゆるやかな傾斜があり、ある地点に行くと、
原爆ドーム、平和の灯、碑文がアーチの中に全て収まるポイントがあります。
このように原爆死没者慰霊碑は、計算されて作られた美しくも厳かな碑となっています。

この平和記念公園には記念碑が、なんと50か所以上もあるのです。
全てを巡るのには1日がかりでしょう。
ですが一度は全てを巡ってお参りしたいと思いました。

最後にオバマ大統領が訪問した時の様子や、オバマ大統領がプレゼントした折り鶴が展示されていました。
この話は、~その2~オバマ大統領折り鶴と、佐々木禎子さんについて
でお送りします。

 

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